2013年10月9日水曜日

【第2回 横浜関内地域の戦災復興と地域創造:長期避難を考える】

第2回の今日は、
横浜国立大学 都市イノベ-ション研究院 建築計画研究室の
藤岡泰寛先生に

「横浜関内地域の戦災復興と地域創造:長期非難を考える」

というタイトルで講義していただきました。




先生は横浜の震災、戦災復興について特徴をさまざまに上げてらっしゃいました。
その中から、地域を再び創りあげていくという視点で見ていくと大切なことは、


keywordsで上げるとするのであれば、3点。

・復興にかかわる人々

・震災や戦争後そして時間経過の中で変化する計画
 

・法律の壁(良い仕組みがない)


の存在であると思われます。
つまりは人、しくみ、計画。



 【復興にかかわる人々】として一番大事なことは、
中心となって周りとかかわりながら物事を成し遂げていく人物でしょう。

今回は震災復興時→父:原富太郎と 戦災復興時→子:原良三郎
が市民の代表として活躍していたというお話でした。

例えば原富太郎は
「横浜の本体は厳然としてなお存在しているのであります。横浜の本体とは何か。市民の精神であります。」
とのべています。

こういったリーダーになる人物がいることは次の街を創りだしていくとき、
間違いなく必要であるでしょう。

また、出来事の後はそこに残りたい人、出ていく人、
協同で再建しようとする人、個別で再建しようとする人など様々な人がいます。

これらの人々をどうリードしていくかが課題かと思われます。


 【震災や戦争後、そして時間経過の中で変化する計画】
震災や、戦争の後、様々なことが変わっていくが、
建物や街というものに焦点を当てていくと、その前後、時間経過の中で推奨されるもの、
計画が変わっていきます。

たとえば、震災と戦争の前後では以下のように変化がありました。

1923年の関東大震災による震災。 そのあとは耐火、耐震建築が主に。(建築物個々のスケールでの取り組み)
1945年横浜大空襲による戦災。そのあとは防火帯建築の計画と実行。(都市スケールでの取り組み)
⋆防火帯建築wiki

戦後時間が経ってからの話では

当初36kmの防火帯建築を作る予定だったが、
結局は9kmの防火帯建築になったという話がありました。

ここから計画は常に変化しているということを含みながら
物事に取り組まなければならないことがうかがえると思います。

長期的であればなおさら。




最後に
 【法律の壁(良い仕組みがない)】 について

法律や仕組みは時としてベストだと思うことをやりづらくしていることがある気がします。(でも制約があるからより創造的になれるっていうことはあるかも)
今回お話に出てきた「地代相当額」という概念と法解釈のくだりより。
(すみません、よくはわかってません。。)

でも、そこを突破していこうという意気込みと実際にやってしまうことが
大切であるように思いました。




 震災も戦争も、この日に絶対に起こるということが前々からわかっているわけではありません。
また、いくら準備をしていても、準備がし切れていない部分、気づけていない部分ががあります。
原発に対する対策、また、津波に対する対策もしかり。

日々、人が変わり、組織の仕組みも、法などの制度も変わる。
災害があればなおさら。

地域を創造していくことで大事なことは
災害があろうがなかろうがそんなに変わらないのだろうか、それとも違うのだろうか。

具体的に、どんな人で、どんな仕組みで、どんな制度で、どんな場所がetc.大事なんだろう。

これからの授業で見ていきたい。



今日はここまで。


やー、長くなっていました。^^;

長文読んでいただきありがとうございます。


岩﨑俊貴



p.s.

授業後に先生のブログがあることを知りました。

横浜に500作られた防火帯建築。
今も残る約200の防火帯建築についてこれからひとつひとつ触れていきたいとのことでした。
ご興味のある方は是非ご覧ください。

藤岡先生が書かれているブログはこちらからご覧になってください。
横浜が「大空襲と長期接収の二重苦からどのように復興を果たしたのか。そこで努力したのはいったいどのような人達だったのか。いまも関内外に残る防火帯建築群を記録・紹介することから考えてみたいと思っています」と記されています。





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